一家の疎開から上京、24歳で「平賀印刷所」を開設

海鴻社の創業者で、現会長の平賀幸輝(ひらが ゆきてる)は、1939(昭和14)年12月、東京・荒川区の尾久に生まれました。父親は、「都腰巻」という、メリヤス(ニット)で編んだスカート状の防寒肌着商品を生み出して一世を風靡した、頭脳明晰なアイデアマン。一方で、破天荒な性格ゆえ、何度も職を変え、博打好きだったことも相まって、幸輝の母親は相当苦労したといいます。

1941(昭和16)年に太平洋戦争がはじまると、一家は長野県中野市に疎開。幸輝は、5、6歳頃から小学4年までをそこで暮らすことになるが、その家の斜向かいには、後に妻となる八恵子が住んでいました。戦後、幸輝の父親は、新たにチャレンジしたリンゴ販売の稼業での浮き沈みを経て、木曽のダム工事に身を投じます。母親は、そんな父親と袂を分かつように、幸輝と二人の姉を連れて親戚を頼り上京。日本橋小網町で暮らしはじめます。

その後、幸輝が中学1年になると、一家は、日本橋人形町で商売をしていた叔父(母親の弟)が買った長屋に移り住みます。その地が、現在の本社工場がある葛飾区西新小岩5丁目です。幸輝は、地元の葛飾区立上平井中学校から中央区立有馬中学校(現在の中央区立日本橋中学校)に転入して卒業すると、東京都立京橋商業高等学校(現在の東京都立晴海総合高等学校)へ進学します。さらに、将来は絵描きになりたいと考え、一浪の末に東京芸術大学を受験するも失敗。19歳で中央区明石町の印刷会社に就職することになります。そして、営業マンとして5年勤めた後、零細企業のサラリーマンという自身の境遇に飽き足らず、新たな道を切り開くべく、24歳で独立。「平賀印刷所」を開設したのです。

紙の印刷に見切りをつけ、曲面印刷に一大チャレンジ

独立に当たり、それまで携わってきた仕事の人脈を頼りにすることはありませんでした。そこで当初は、飛び込み営業で新規顧客の開拓に奔走。何度も通ううちに幸輝を信頼してくれる会社が増え、知り合いを紹介してくれる人も多くなって、カタログなどの大きな仕事を受注するようになります。しかし起業から4年ほどすると、競合が多い「紙の印刷」を中心とした会社経営の限界が見えてきてしまい、一旦撤退することを決意。そして、新たな事業展開を模索していくなかで、『印刷年鑑』に掲載されていた曲面印刷の機械メーカーに目が留まり、これだ!と直感したのです。善は急げとばかりに、さっそく、そのメーカーから、ゼラチンをインクの転写体として使用した日本製のタコ印刷機を購入。これは、スイスの腕時計の文字盤印刷技術を応用したもので、一般にパッド印刷やタンポ印刷とも呼ばれています。

幸輝は、持ち帰った印刷機を使い、さまざまな曲面の物体に印刷を施したサンプルを制作。興味を持ってくれそうな業種や商品に当たりをつけて、多くの企業に持ち込み、プレゼンしたのです。当時は、曲面への印刷など誰も見たことのないような時代であったため、その技術には誰もが驚いたといいます。そのうちの一社が、ゴルフボールを製造していた大手タイヤメーカーでした。すぐにゴルフボールへの印刷のご注文をいただいたのですが、当初は、ゴルフクラブで打っても印刷が剝がれないようにするため、さまざまなインクを試したり、印刷した上にニスを塗ったりと試行錯誤の連続。やっと安定した品質のものを納入できるようになったところで、今度は、そのメーカーから、社内事情により自社内で印刷したいという相談を受けたのです。幸輝は、その要望に応え、ガラスの版のつくり方から最適なインク、印刷機や乾燥機の本体、技術ノウハウまでのすべてをワンパッケージにして販売。かつてない大きな利益を手にすることになります。

「海鴻社」設立、そして曲面印刷の量産化、資材メーカーへ

その成功に導かれるように、1968(昭和43)年5月7日、幸輝は長野の疎開先で知り合った八恵子と結婚します。また業務面では、平賀印刷所の曲面印刷を「キュービカルプリント」と名付け、広くアピール。さらに、社名を「海鴻社」に変更したのです。この名前は、大きな鳥が大海原を渡るかの如く、未来へダイナミックに羽ばたいていく会社をイメージしたもの。そんな成長への思いが実を結び、仏像、ガスレンジ、口紅、哺乳瓶、ミニカーといった、さまざまな形状をした多種多様な製品への印刷依頼が舞い込むようになります。そして、3年後の1971(昭和46)年、法人組織に改編し、「有限会社海鴻社」の代表取締役に就任したのです。

当時は、ドイツのパッド印刷機メーカーがシリコンの転写体を使った印刷機を開発したことで、曲面印刷の容易な量産化が実現した時代。幸輝は、その新機種がミニカーの印刷工場で使われているのを目にして、「こっちは刀で戦っているのに、相手は機関銃を使っている」と思ったといいます。実際、日本では、大きな工場のラインに組み込まれる形では使われていたものの、町の印刷屋レベルではまだどこも導入していませんでした。そこで、幸輝は、そのドイツ製パッド印刷機を日本の大手機械代理店から購入。時代とともにパッド印刷の市場が広がりを見せるなか、ミニカーや仏像といった曲面形状の製品への印刷量産化を進めていったのです。一方で、独自に製造していた「版」や「シリコンパッド」の品質の高さが大手機械代理店に評価され、協力販売体制を確立。これを機に、資材の製造にも力を入れていきます。その後、パッド印刷においては、従来の印刷加工中心から消耗資材メーカーへと重心をシフトしていったのです。その背景には、「時代の趨勢で仕事の形を変えるのは何ともない。新しいことをはじめても、1年辛抱すればたいてい大丈夫」という幸輝の『柔軟な発想と強い信念』がありました。

新代表取締役就任、さらにハイレベルな独自印刷の開発へ

幸輝の長男で、社会人となり複数の印刷会社で研鑽に励んでいた、平賀裕一郎(ひらが ゆういちろう)が海鴻社に入社したのは1998(平成10)年。裕一郎25歳の時のことでした。しかし、パッド印刷に関しては、企業の生産拠点の海外移転が加速していったことで、次第に市場の停滞感が鮮明になっていきます。そのあたりから力を入れはじめたのが、旗やのぼりといった布への印刷です。そして、裕一郎が他社で培ってきた技術力をベースに研究開発を重ねることにより、さまざまな生地への高精度で鮮やかな色彩の印刷をスピーディーに実現していきます。

この新しい挑戦と旺盛な営業努力により業績を伸ばしていくなか、2004年(平成16年)、裕一郎が代表取締役に就任。幸輝は65歳の誕生日をもって会長職に退くことになります。その後、極薄生地や伸縮生地といった特殊素材への印刷品質で大きな成果を挙げるとともに、生地の組み合わせや裁断加工においても技術の高さを実証しています。さらに、ボトルやタンブラー、グラスをはじめとする円筒・円錐形状の製品に対する回転印刷加工でも独自性を発揮。これまでもこれからも、海鴻社の名にふさわしく、印刷の大きな可能性にチャレンジし、羽ばたき続けます。

海鴻社創業者 現会長 平賀幸輝、妻 八恵子、海鴻社代表取締役 平賀裕一郎(2024年夏撮影)